今年もまた 狩猟シーズンが終わろうとしている。
ビッと冷えた空気が頬を刺す真冬の午前中 、銃を肩に冷えた森へと一人、足を踏み入れる。
樹間から漏れた陽射しが枯れ木と落葉の茶色、所々に残った残雪の白に濃いコントラストを作る。
緊張感と平和が共存する、穏やかで不思議な空間。
獲物を探す眼差しはあえて一点を凝視せず、ぼんやりと森全体を眺めている。
少林寺拳法で言うところの、八方目(はっぽうがん)というやつだ。
そうしながらも時折、微かな物音や 気配がした方向に視線を送る。
やがて一瞬の遭遇の時。
視界の中に何かの違和感を捉えた瞬間、背中や腕にゾワゾワとした電気が走る。
銃を肩付けし、照準器のレッドドットを獲物に重ね合わせようとするが、大抵はもう遅い。
鹿が逃げ去った藪の方向に目を追いながら、また逃げられた、、という悔しさと、命を奪わずに済んだという、相反する気持ちが胸をよぎるのを感じる。
独りの森、充実の時間。
獲物を追いながらも、本当は何か別の、姿の見えないものを追う事に没入しているのかもしれない。
狩猟を行う理由には、好きだからという事の他に、食料の確保という意味もある。
それは経済的な理由や、自分が口にする肉は自分の手を汚してみるべきだ、という想いもあるからだ。
また、食料を自前で確保できる能力や環境の重要性というのが、リアルに感じられる世の中になってきたことも含まれている。
これは何も円安で物が何でも高いというだけでなく、大災害や気候変動、紛争による食料輸入の不安定性なども含めた、何とも言えない近頃の、世の中に対する危機感もあっての話だ。
限られた装備と自分の技術で、自由に野営を行う。
その為の知恵とスキルと思考力を養うには、、
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そして別の理由は、地に足のついた暮らし、生きていくために必要な様々な”仕事”の大切さというようなものを、この土地で暮らすようになって知った事だ。
ここ八ヶ岳に限らないと思うが、田舎の人は、生きていく為に必要な仕事を何でもやる。
そして、仕事とは金銭を稼ぐというものだけに留まらない。
ある人は田畑を耕し、時には山菜やキノコを収穫したり、森から燃料となる薪を集め(1年の半分は暖房が必要なこの土地では光熱費問題は重要)、そして鹿や猪を狩って肉を手に入れるといった具合にだ。
無論、田舎の生活であっても、車のガソリンや税金、スマホの料金などといった、金でしか支払えないものもある。
けれど、金を出さずとも、こうやって直接手に入れられるものだってあるのだということを、この土地で学んだ。
まさに昔の人々が、貨幣を持つようになる前は、物々交換で暮らしを成り立たせていたように。
そうした姿を見て、仕事とは生きる為に必要な作業全てを指すということを体で理解した。
何も金を稼ぐだけが仕事ではなく、金銭が労働の対価となるのは、仕事の一部でしかないと。
その時から、私の中でビジネスとは、仕事の中の商いというジャンルに位置付けされるようになった。
貨幣で必要なものを交換する生活、それは便利で楽かもしれない。
けれどその金を稼ぐ為に、不本意な思いで毎日を浪費することを良しとせず、自らの力で生きていこうとする者達、そんな仲間が私の周りに増えてきた。
生きる為に必要なものを、質素ながらも必要十分なだけ、自分で賄っていく生き方。
それはまた、野営にも通じるサバイバルの精神だ。
あなたは何を追って、生きているだろうか?
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