焚き火の魅力

キャンプに行きたくなる。
なぜ行きたくなるのか?と問われれば、幾つかの答えを口にすることはできるが、その最たるものは、焚き火がしたいからだ。
では何故、焚き火がしたいのか?昔から間々、考えることはあっても、未だにその答えはない。
というよりもむしろ、理屈ではないのだろうとは、大分前から解っている。

ガキの頃、大人たちに隠れてやってみたくなる遊びが幾つかあったが、その中でも火遊びはベスト3に入る、禁断の遊戯だった。
見つかったら叱られる、一歩間違えば火事を引き起こして大騒ぎになりかねない、、
そんなスリルもあいまってか、妙に興奮した覚えがある。

草叢の中の空き地や夕暮れの資材置き場。
3,4人の仲間と、外界からの眼を遮るように輪になってしゃがみこみ、1人が家からこっそり持ち出したマッチを取り出す。
既に百円ライターも珍しくはなかったと思うが、何故かマッチの記憶が強い。
みんなが息を詰めて見守る中、慣れない手つきで1本のマッチを擦る。
が、上手く点かずに2~3度、失敗を続けると、他のヤツがしびれを切らして、俺にやらせろと奪い取る。
シュバッという燃焼音と共にオレンジ色の火が灯ると、皆の顔に、少しの興奮とウットリした表情が浮かぶ。

そうして拾ってきた新聞紙に火を移し、落ち葉や小枝を重ねては火を大きくしようとするのだが、上手くいかない。

煙ばかりが立ち込めて、ゲホゲホ言いながら何とか火を消さないようにと頑張るのだが、努力虚しく、炎はどんどん弱まっていく。
やばい!もっと燃えるものを持ってこい!と、リーダー格の誰かが叫ぶと、格下のメンバーは大慌てで飛び出していく。
あまり煙を出していると、そのうち大人に見つかってしまうのではないかという緊張感。
早くしないと、もう2度と焚き火を熾すチャンスは失われてしまいそうな焦燥感。

やがて燃え上がった火に安堵と、言葉では説明することのできない喜びを感じていた記憶。
そんな風に、TVか映画で見覚えた焚き火を真似してみたくて、夢中になった。
自分にとって、焚き火の原体験はその辺りにあるような気もするが、どうしてそんなことをしようとしたかは解らない。
多くの遊びの楽しさに理屈がないのと同じで、子供心に単純に、面白そう!感じたからなのだろう。
人が持つ根源的な欲求、遺伝子が求める本能的な欲望。
そんなものが、小さな子どもにも火を熾すという行為をさせたのだと、今は思う。

そしてそのDNAは消えることなく自分の中に根を張り、成長していった。

少年時代に数限りなく繰り返したキャンプ。
その中心にはいつでも、焚き火があった。
無論、野外生活に必須のエネルギーとして、煮炊きや暖を取る為に行ってはいたのだが、単なる道具として以上に、焚き火は無くてはならないものだった。
夏の暑い時期でも、調理用のガスバーナーを持って行っている時でも、焚き火がないキャンプは何だか寂しく、間の抜けた感じがしたものだ。
まさに、”火の消えたような”という表現そのまま。

逆に、炊事も終わり、火を燃やす必要がなくなっても、竈の周りには自然と人が集まってきた。
寒い訳でもなく、照明もランタンが煌々と灯っているにも関わらず、皆、いつしか火を囲んで座り込んでいるのが常だった。
ある旅人は言ったそうだ。” 燃やせ、できるだけ小さな火を。そうすれば人はもっと寄り添える”と。
夜更け、眠る前の少しの時間。
小さく、弱くなった焚き火の脇に腰を降ろし、その暖かさを感じてみる。
ゆらめく炎を見つめ、その中に今日一日の出来事を思い出す。
同じように座っている隣の仲間も、眼差しは炎を向いたまま、喋らない。
火の傍で過ごす一時では、誰もが自分の内側を見つめる時間を持っている。

やがて、”お休み、また明日”と言い残して1人、またひとりと暗がりの向こうの天幕へ消えていく。もう、熾火も僅かだ。
あと1本、この薪を足して、それが燃え尽きたら睡ろう、、そう思いながらも、火が弱くなるとつい、もう1本、継ぎ足してしまう。
何か離れがたいような、消してしまうのがもったいないような、、
結局、深夜まで1人、何をするでもなく、焚き火をいじっているのが常だった。
匂いには記憶ってヤツがついている。
人それぞれ、思い出すものは違うだろうが、その香りを嗅いだ瞬間、心にフラッシュバックしてくる情景というものがある筈だ。
かつて過ごした場所や、馴染みにしていた店の匂い。あるいは何年も押入れにしまいこんでいた服や道具に染み付いた、記憶の残滓。
そんな中でも、焚き火の香りは、街中でも何処にいても、一瞬で私の心を山のフィールドへと連れ返してくれる。随分前の話だが、暫く野外に出ることもなく過ごしていた時期のこと。
引っ越しのために荷物を整理していると、忘れかけていた道具類が出てきたことがある。
カラーボックスにしまい込んだまま、もうずいぶん経ったフィールドジャケット。
手にしたとたん、燻されて染み付いた煙の匂いが立ち昇り、懐かしい気持ちになった。
少しかび臭く、鉱物油の匂いのする革製のナイフの鞘も、焚き火の脇でくるまって眠り、焦げ跡を作ってしまった毛布から漂う汗と土の匂いも、当時の何気無いシーンの一コマをくっきりと、頭の中に呼び起こした。

徹夜の山地行動。靴の中まで水が染み通り、ふやけて白くなった足を、小さく燃える火に当てる。
濡れた靴下を竈の石に置くと、暗闇をバックに湯気が上がるのが見える。
午前5時。冬の明け方はまだ暗く、森は不気味なほど静かで、焚き火の爆ぜる音以外、何も聞こえない。
吊るしたポットの中では、プツプツ気泡を立てて湯が湧き始めている。
インスタントコーヒーを注ぎ込んで木の枝でかき回し、カップへ移すと、心地良い香りがした。
傍らの朝露で湿った薪を数本、火の中へくべる。
火には風の通り道があり、それを遮らないよう、組んでいく。
どこに、どのタイミングで薪を重ねるか。これまで無数に繰り返してきた作業は、体が無意識で憶えている。
いつしか太めの薪にジワジワと火が移ってきた。
これで後数時間は、手を入れてやらなくても火が消えることはないだろう。
ザックから毛布を取り出して体に巻き付け、焚き火の脇で横になる。
夜明けまでの、僅かな安らぎの一時。体を温めてくれる炎の熱が有難い。
瞑った瞼を通して、チロチロと揺れる炎の色を感じながら眠った、そんな記憶。
思い出せば色んな所で、沢山の焚き火をしてきた。
昔は、時にはどうしても火がつかずに、悔しい思いで諦めることもあった。
そのうち、失敗せずに、手早く火熾しができるようになって、少し自分が成長した気がして嬉しかった。自信がついた。
何処に行っても、一人でも、焚き火をすることが出来さえすれば、怖くも寂しくもないと思えるようになれた。
明かりと、体を温めてくれる熱と、食事を作ることのできる火の大事さ。
そして、それにもまして、見ているだけで気持ちをホッとさせてくれる、柔らかくて優しい炎の有り難み。

優れたアウトドア用の器具が発達して、炊事も照明にも、必ずしも焚き火を必要としなくなった現代のキャンプ事情。
けれど今、焚き火をすることの意味とは、そうしたツールとしての機能にもまして、人の心を感動させたり、仲間とのくつろぎの場を作り出すことにあるのではないかと思っている。

野山での一夜のかりそめの宿、その中心には焚き火が燃えている。
決して大きく派手ではなく、しかししっかりと熱を蓄え、煌々と輝いて力強い。

自然の中に身を投じた弱い生命体の人間が、野生で生きる為の拠り所。
誰もが気持ちを和ませ、安らぐことのできるオアシス。
それが焚き火の本当の存在価値だろう。

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