キャンプに行きたくなる理由

キャンプとは、”野外で一時的な生活を行うこと”と定義づけられているそうだ。  
           
これは別の角度から捉えれば、本来、人間が行っていた、原始のスタイルでの生活を敢えて今、行ってみる事とも解釈出来る。
電気もなければガスもない。暑かったり寒かったり、虫が飛んできて肌を刺してみたりと、キャンプ生活には不愉快なことこの上ない場面も数多い。

そういう不便でしんどい生活を、より快適に過ごすために改善してきた集大成が、今の文明であり、文化的な生活と呼ばれる今の私達の暮らしの筈なのに、何故わざわざ、そんな昔ながらの生活をしようとするのか?

こんな小難しいことを考えながらキャンプをしている人はめったにいないだろうし、楽しいから、好きだからというひと言で、理由は十分だ。
けれども、少なくとも自分の場合は、最初は好きでも何でもなく、むしろ嫌々始めさせられたのが実態だった。

運動オンチで肥満児、内向的で家の中で遊ぶのが好きな少年が、強制的にボーイスカウトという、半軍隊的、体育会系な組織(少なくとも当時は)にブチこまれてスタートさせられたのである。

寝床はジメジメすえた匂いのする、慣れないテント。
布団代わりの寝袋は窮屈で、食事も自分達で拵える、水のような薄いカレーや炊くのに失敗した焦げ飯。
当時、いわゆるオタク少年だった自分が、規律とタテ社会、時間厳守で肉体的にもキツイことをさせられるのだから、キャンプなど好きになれる訳がなかった筈だった。
だが、次第に慣れるに従って、段々と野外生活に面白さを感じるようになっていったのだ。

修学旅行や林間学校での夜、仲間たちと過ごす非日常の空間が楽しかった思い出があるのは、私だけではないと思う。
夜中、先生の目を盗んでヒソヒソ話をしたり、部屋を抜けだして夜の街に脱走する快感。
それと同じような楽しみを、キャンプで感じるようになったのである。

週末に同年代の友人達とだけで過ごす時間、しかもシチュエーションは森や山の中。
誰も叱る者などおらず、何をしても咎められない。いわゆる悪ガキのやり放題な生活がそこにはあった。
かと言って、酒や煙草に手を出す訳ではなかったし、犯罪的な行為をすることもなかった。
多分、とにかく大人の目の届かない所で、好きにしていられることが楽しかったのだろうと思う。

そしてもう一つの隠れた理由。当時、意識することはなかったが、潜在的に、野性的な生き方に憧れを持っていたようだ。
トムソーヤの冒険に登場してくる、森の中の木の上に1人で小屋を立てて住んでいる主人公の親友ハックルベリー・フィンの暮らしぶりは、子供心に純粋に羨ましいと思っていた。
ロビンソン・クルーソーの物語は、何度も本で読み返すほど好きだった記憶があるし、当時、TVで放映されていた、南の島で遭難した家族が自給自足で生きていくアニメの内容は、今でも良く憶えている。

けれども、肥満と喘息という、野外生活にはおよそ向いていない身体の自分。
そんな己を嘆いては、もっと体を強く、どこでも生きていけるような逞しい人間になりたいと、悲壮な思いで過ごしていた。
映画の中に出てきたカウボーイが、夜、平原でキャンプをし、焚き火の脇で眠ってしまうシーンを見ては、寒くないのかな、、風邪引いたりしないのかな。。自分だったらちゃんと眠ることが出来るだろうか、、などと、主人公に我が身を重ねあわせては、出来るわけがないと落胆する。

また時には、主人公が森を駆け巡り、崖から飛び降りるシーンを目にして、俺にも出来るか。。?と近所の電柱によじ登って、そこからジャンプしようとしてみたりもした(今となっては笑い話だが、当時は真剣そのものだった)
しかし、経験が積み重なるにつれ、少しは自信がついてくると、TVや映画の憧れのヒーロー達に少しでも近づくべく、キャンプで色んなことに挑戦するようになった。

水もトイレも有る、なまっちょろい既成のキャンプ場よりも、森の奥深く深くへと入り込んで、テントを張る。
山道を使わず、コンパスと地図だけで茂みを掻き分け、ルートを突破して目的地へ辿り着く。
遂には少年の憧れだった、焚き火の脇で野宿することも出来るようになった。

そんな修行のような経験をする内に、最初は感じなかった面白みを覚えるようになっていった。
自分が背負って持ってこれない道具は、自然から作り出せば良い。
知恵と工夫と創造力を使えば、必要十分な生活の為のツールは産み出すことが出来るという、野外生活の原点を悟ったのである。

古代、自分たちの祖先が、暮らしに必要なものは全て、身の回りの自然から得ていたように、無いものは作る、または無いなりに何とかする方法を見つけ出すといった、自分流のキャンプスタイルが出来上がっていった。
自然の恵みを活かし、創意工夫を凝らしてその日、その晩を暖かく、快適に過ごすスキル。
また同時に、時にはどうしても遭遇する、厳しい自然環境や肉体の辛さを凌ぐ精神的な強さ。
そうしたものを日毎、野外で過ごす内に習得でき、肉体的にも精神的にも強く成長出来ている自分が嬉しかったのである。

こうして野性的な過ごし方を突き詰めていくと、やがて、そのスタイルはソロキャンプへと向かっていった。
森の中、完全に1人きり。何かあっても誰も助けてはくれない。
やっていることは普段、仲間達と一緒のキャンプとそう変わらないはずなのに、自分しかいないという状況に、不安と緊張がずんとのしかかる。
しかしこれも最初のうちだけ。慣れてしまえばまた、新たな発見があり、ステキな時間だということも知ることが出来た。

夜、焚き火の傍で過ごす時間。誰も喋りかけてくることはなく、意識は自分の内側へと入り込んでいく。
寝袋に潜り込んで瞼を閉じ、今、俺はこんなところで一人っきりで、何をしているのかと考える。
ねぐらに潜り込んだ動物のように、自分1人のテントの中の小宇宙で、安心して眠りにつく。
自分が生きている充実感、穏やかだけれど力強い心の高揚を感じることができる。

都会の生活を離れ、非日常の自然の中でくつろぐ、美味しいものを食べてのんびりする。
そういったキャンプのやりかたも一つの楽しみではあるし、否定するつもりは全くない。
現に今では、車に山のような食料とビールを積み込んで行って、皆で大騒ぎするキャンプも大好きである。
だが、野外生活の原点に立ち返る過ごし方、プリミティブなキャンプが自分の源流にあって、そこで得られるものは、単なる楽しさだけにとどまらないという事実は、もっと多くの人に知って貰いたいと思っている。

私が週末冒険会を始める時、ただのキャンプ集団を作るのではなく、野山を旅する中で、一生忘れられない経験や、人生を送る中で自分を支えてくれるような知識、技術、精神力といったものを身に付けられるような組織にしたいと想ったのは、こんな経験が根にあるからだ。

誰にも、何も邪魔されない自由のある生活。
それは言い返せば、誰も何も導いてはくれず、自分で方角を定め、身を施す術を身に付けて進んでいかなければならない暮らしということでもある。
大自然の中、キャンプをして過ごすということは、そういった、人の生き方の凝縮された暮らしということでもある。

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