火を扱うということ

かがり火 01.17.14

 

大晦日、深夜11:50。

初詣に出掛けた神社の境内で、篝火を見た。

神殿へと詣でる人々の列の蠢きを感じながら参道に並ぶと、厳粛な空気の中、夜空を背景に空へと昇って行く火の粉。

青黒く聳え立つ、巨大なケヤキの幹を炎の橙色が揺れながら照らす。

この最後に至って火を見ながら年を越すとは、アウトドアと焚き火に費やしてきた一年らしい終わり方だなと思った。

 

家屋密集の大都市の東京では、野外で火を炊くのは、祭事毎で行うという大義名分のある神社であってもなかなか大変なこと。

東京に限らず現在の日本の多くの街では、火災予防条例により焚き火は禁じられているのが実情だ。

ネットで調べてみれば解るが、例えそれが自分の家の広い庭であったとしても許されないという。何とも息苦しい国なんだろう。

そんな中で、本物の篝火を見られるとはついている。実際私も、ちゃんとしたものを見たのは初めてかもしれない。

寺社や公園などでは、古くからの行事で火を扱う風習がある場合、特別に焚き火を許可されているところも無いわけでは無い。

が、火事の危険性や近隣への煙の迷惑を考えると、容易くは行えないのだろう。

因みに、この神社は能楽殿があり、昔から薪能が行われているのだろう。

そのせいで地元からも理解が得られているようだった。

 

私の地元の宮城では、”どんと祭”と呼ばれる風習がある。

毎年1月14日に、正月に飾った松飾や神棚に供えていたお札などを神社に持ち込み、燃やして神様に返す習わしだ。

大きなところでは直径数メートル、高さ2~3mものスケールで飾り物が境内に積み上げられ、それが燃え上がる。

そんじょそこらのキャンプファイアーレベルではない巨大さ、熱の量。ちょっとした家の火事くらいの規模だ。

この火に当たって体を温めると、一年健康に過ごせるという言い伝えもあった。

また、その火で餅を焼いて食べるという風習もあったように思う。

こうしたことが未だに出来るのも、田舎ならではという事情が強い。

東京に住み始めたばかりの頃の正月過ぎ、ゴミ捨て場に松飾が捨てられているのを見て、軽いショックを覚えた記憶がある。

先日まで恭しく供えられていたものが、数日後にはあっさり、燃えるゴミとして出されているとは、、、

そして、東京ではどんと祭という風習がないことも、このとき初めて知った。

なので、今でもこの飾り物をゴミとして出すことに抵抗があるのである。

 

人が生きる為に欠かせないエネルギー、野山であっても文明社会であって変わらないもの。それが火だ。

闇の暗さから身を護り、寒さに凍える体を温め、命を繋ぐ食事を作り出す。

しかし、触れれば身を焼き、拡がれば何もかもを瞬く間に無に帰すことも出来る火の力。

火を生み出し、コントロールできるということは、自然の力の一部を我が手にするということでもある。

置かれた環境から燃える物を見つけ出し、集め、割り、削り、組み立てる。

風の流れを読み、必要なだけの小さな炎を熾す。

そこには、野外で自分と仲間を生かす為に、自然の摂理を理解し使いこなすという、ワイルドライフの最も基本的な理念が詰まっている。

 

今年、あなたが何処かの野山で焚き火をする機会があったら、今日のこの話を思い出して欲しい。

そうすれば、アウトドアで生活する時に必要な考え方を身に着ける助けになるだろう。

 

 

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