生きる為に命を頂く

 

鹿の目は蒼い。
その命が消えていく瞬間、薄く靄がかかったような蒼になる。
せめて早く苦しみから解放されるように、、と、一瞬でも早く絶命してくれるのを、少しじれったい気分で待つ。

皮を剥ぐ。
まだ体は温かく、茶色と白の毛はややゴソゴソしていて、その皮膚を掴むと、グニャリと伸びる。
昔、実家で飼っていた柴犬に触れたときの感触を思い出した。

肉を捌く。
罪悪感からか、少しでも無駄なく食べてあげられるようにと、肉を綺麗に取り外そうとするのだが、どうしても上手く切り取れない部分が残ってしまう。

己の下手糞なナイフ捌きにイラつく瞬間を何度か経ていると、生き物から食べ物へと自分の意識が変化してくるのを感じる。

 

この十数年、全国的に鹿の数が激増して、農作物が食べられたり、樹皮を食べられた木が枯れて、森が消滅してしまう被害が全国的に深刻になっている。

そして、害獣として駆除されても、その約9割が廃棄処分されている現実がある。
廃棄処分とはつまり、肉や皮を利用せず、埋められたりするだけということだ。

 

ではなぜそんなに数が増えたのか?

理由としては、温暖化によって、越冬出来る鹿の数が増えたことや、狼の絶滅により天敵がいなくなったことなどがあるそうだ。

加えて、外国産木材に押されて商業価値が下がった結果、林業が衰退して里山が荒れ、人間と獣の境界線が曖昧になってしまい、人里に近いところまで動物が降りてきてしまうという現実がある。

これは鹿に限らず猪や猿でも同じで、同様の問題が起きている。

 

田舎暮らしをしていると、生きるという行為の現実、原点に触れる機会が多い。

週に1、2度は必ず、畑から直の野菜を貰うし、自分達でも土をいじって作物を育てることもある。
そこには、スーパーでラップに包まれ、綺麗に泥を落とされた、商品としての食べ物ではなく、生きているものという感じが濃密に漂っている。

冒頭の鹿を仕留める件も、つい先日に私が体験した話。
住んでる借家の大家が罠猟を行っており、時折、その手伝いをすると肉の分け前にありつけるのだ。

 

食料を得る為に、生き物を殺す。

野営の要素、衣食住を突き詰めていけば、必ずこの問題にぶち当たる。

スーパーで売られている肉を食べていれば良いだろうという意見もあるだろう。
だが、それを言う人は、自分の代わりに誰かが殺生を肩代わりしているという事実を認識しているのだろうか?

また、ベジタリアンになればそんな罪を背負うことは無くなるという意見も、賛同はできない。
あなたが食べている野菜が育つ過程で、農薬に殺される虫もいたに違いない。
命の重さは皆平等、、というのならば、虫も、植物の命も同じではないのか?という議論にもなる。

 

結局、この辺は感情に左右されている部分が多いのが現実だろう。
見た目が可愛い動物、普段から慣れ親しんだ生き物だけが殺されるのが耐えられないというのならば、それは単なる差別主義になる。

 

野外で生きる事と田舎で生活するということは、ある部分ではかなり似通った点が出てくる。
その一つが、”ナマ”の命を手に入れて食するということだ。

切り身や加工された食品ではなく、原材料そのものズバリを、文字通り、自らの手を汚して得る。
時には残酷な経験をするからこそ、大事に、無駄なく食べようという気に、どうしてもなってしまうのだ。

 

因みに、鹿肉はカロリーが豚肉の1/2~1/3で、脂肪の少ない良質なたんぱく質。
人間の体にある鉄分と同じヘム鉄が豊富なので、お肉大好き女子には是非、食べて頂きたい。

まだ食べたことのない方は是非一度お試しあれ!

 

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